あれからもう4年になるかな・・・。
大雪の中、家の近辺を2週間近くぼろ雑巾に足が生えた生命体が徘徊しており、地域の多くの方々から嫌がられ排除されていたのは・・・。
そのかすかな生命を自分とダブらせて家につれて来た意味が、そのかすかな生命が失われそうになった今となって少しだけ理解できる気がする。
話は少し変わるが、その年の暮れにイランで地震があった。
イランからの留学生が「先生何か出来ないでしょうか」と言うので、義援金を集めましょうということになった。暮れの29日から正月3日まで、朝9:00頃より夕刻6:00頃まで毎日買物に立って募金活動をさせて頂いた。
当初10万円も集まれば十分だとの予想に反して、90万円近くの義援金を集めることが出来た。そればかりでは無く、多くの方々が私とイランからの留学生を気遣って、暖かい飲み物やホッカイロ等の差し入れまでして下さった。
驚くことにそれらを支援くださった多くの方々はお年よりだったり、お子さんだったり。その方々の多くは私から見るとお金に裕福な方達と云うより、どちらかと云うと質素な生活をなさっていらっしゃる方々のように見受けられ、外国人(よそ者)のことを気遣う余裕があるのだろうかとさえ思えた。
これらと同様なことは、2年半前に市長のリコール活動をした時にも感じることが出来た。
そして今まで以上に市長選挙が終わって多くの方々から、「貴方がよそ者の代表としてこのまちの再生に尽力して」とのお言葉を頂いている。
私としては嬉しい反面、何時になったらよそ者で無くなるのだろうかとの不安もあるが、そもそも倭人が入植してたかが200年弱であり、人類誕生から考えればちっぽけなことでもある。
今後よそ者と呼ばれることにもプライドを持てるように精進すると共に、北の大地(自然)や先住民族の方々から土地を使わせて頂き、活かして頂いているのだとの真摯な気持ちで進みたい。
ぼろ雑巾だった生命体はチャッピーと言い、少なくとも以前よりよそ者扱いされることも無く、今も生をまっとうしている。
コメント (2)
私は生まれ育った土地を離れ、42年振りに戻って来たが、その間ずーとよそ者の生活であった。
しかし、生まれたこの土地よりも暖かかったように思うのは、Uターンした私が今、「よそ者」「移住者」の目で見られ、「ここの者じゃない」「すっかりよそ者」になって戻って来た。と、同級生や親類に言われ、新しい地元の仲間にも「その考えは東京者」などと衝突する。
先生「よそ者」は立派なブランドです。胸張ってこの街の大通りへ出よう、そしてよそ者の実力をこの街で試してみよう。
募金を寄せてくれた質素な市民や子供達がもっと沢山いる筈、分かり合えるまで頑張りましょう。
お互いを正しく評価し合い、認め合って協力する「旭川人」が増えることを願って活動を続けましょう。
投稿者: saitou nobuyosi | 2006年12月27日 14:58
日時: 2006年12月27日 14:58
勇気づけられるお言葉、ありがとうございます。
伝統・文化・藝術を成熟させるのに必要なことは、それまでのスタイルを単純に積み重ねることなのでしょうか。
私は研究者・教育者の端くれとしても、そうでは無いと考えております。
今までに無い価値観や生活スタイルが入ってきた時に単純に排除するのでは無く、双方の価値観を認め合った上で新たなスタイルを創ることだと考えております。そのことが伝統・文化そのものだとも思います。
それは四季の豊な道内の木材に年輪が深く刻まれることにより、同じ比重の南洋材より折れ難いことと似ているのではないでしょうか。
しかし長い間、外部の価値観を排除してきた為に、厳しい気象条件にも関わらず旭川は南洋材のような体質になってしまって、今にも折れそうになっているのではないでしょうか。
私達のようなよそ者(違う価値観を持った者)がこのまちの深く入り込んだ年輪にならなくてはならない時なのかも知れませね。
投稿者: 神崎実 | 2006年12月27日 19:08
日時: 2006年12月27日 19:08